各地の野山に「花だいこん」が咲いた春。全国の合唱団でうたわれる「紫金草物語」と、最近の戦争史歪曲、慰安婦問題の動きから「花だいこん」や花禁止令の由来を再び書いてみた。
ある日、1本の電話がかかってきた。
東京・足立区に住んでいる大門高子さんだった。元学校の先生で音楽構成の脚本も書いている。
「花だいこんという植物の由来を調べているんですが、知りませんか」
彼女の話では、春に山手線などに咲く花だいこんという野の花の、名前や日本に渡来してきた歴史を調べているということだった。1994年のころだったと思う。
昭和天皇を巻き込んだ名称の論争が、かつて新聞で賑わしていたこと、どうも日中戦争に関連して日本にはいってきたらしいとのことだった。
じつは大門さんは、わたしたちが80年代に千葉県で展開した「花禁止令」調査の新聞記事を読んでいた。同じ花のことなら何か知っているのではないか、と電話してきたのだった。
「花禁止令」は、第2次世界大戦の前夜、食料増産のため一切の花栽培が禁止された史実であった。県下の若者たちが房総方面に何度も足を運び、音楽や文学、映画で戦争の実態を伝えた運動だった。
「花とふるさと」という音楽合唱構成、演劇、童話や絵本などになり、今も合唱団や地元中学生に継承されている。たまたま房総地方に詳しいこともあって、わたしも調査・創作の中心として参加していたのを大門さんが知っていたのだった。
「花だいこん? 聞いたことありませんね。どんな花なんですか」
「紫色や白い小さな花をつけ、紫花だいこんともいうらしいの。全国どこにでも咲いているようですが、山手線の窓からいろんな場所で見られます」
「千葉県でも見られますか?」
「ええ、きっと咲いていると思います」
そのときは季節はずれで探すことはできなかった。
「『花とふるさと』を大西さんたちと創ったので塚田さんが詳しいのではないかと・・」
大西進さんは、名曲「青い空は」や「夾竹桃のうた」を作曲している人で、「花とふるさと」の中心的な歌も作曲していた。
「そうですか、千葉県であったどうかもわからないんですね。一応、関係機関に当たってみましょう」
農協、園芸試験場、県庁などに聞いてみたが、「花だいこん」という名前は知っていても日本に渡来したことや、まして戦争に関するような話はまったく調べられなかった。本業の出版業が忙しいこともあって、わたしはしばらくほおっておいた。
「その後、何かわかりましたか。こちらでも手を尽くしたんですが、新しい情報は出てきません」
大門さんから催促のような連絡がはいったのは、初めの電話から半年は過ぎていたと思う。
今度は別のルートに当たってみることにした。まず千葉県の花卉園芸者や植物園、花愛好家、京都に本社がある有名種苗会社にも問い合わせてみた。
「花だいこん」は俗名で、中国原産の花だということは比較的すぐわかった。「諸葛菜」「紫はなな」と呼ばれている。菜の花を少し小ぶりにして、さくら草にも似ている。
たしかに春、気にかけて見ると山手線や中央線の土手のあちこちに群生していた。都内の沿線はコンクリートで囲われ土盛りの土手は少ないが、それでもJR四ッ谷駅、日暮里駅や東中野駅などではびっしりと何十mにもわたって咲き乱れていた。
特に誰かが植えたふうでもなく、野生化した花が自然に繁殖し、毎年同じように芽吹いているようだった。多くの乗客が朝夕に見ているだろうが、意識しなければ誰も関心を持たないのではないか、そんな存在だった。
こうした「花だいこん」が、南京大虐殺に関係しているらしい、との話だった。
最近の政治家や歴史研究者の一部に、「南京大虐殺は史実とちがう。中国の一方的な言い分を誇大にしている」といった主張をする人もいる。教科書にまでこうした考えが載せられ、まさに歴史の捏造として世界から批判されている。
だからこそ、戦争の記憶はいつの時代にもくりかえし伝承されなければならないが、「花だいこん」が一つの伝承物語として役立つなら、第二の「花とふるさと」になるかもしれない、と思った。
そうこうしているうちに、この花を日本に持ち帰ったのは山口という軍医らしいことがわかった。
「千葉県の軍人恩給者にはそういう方はいませんね」
行政関係者のつても徒労に終わった。日本と中国の交流に尽力している、日中友好協会の知人も知らなかった。
ある日、会う人ごとに「花だいこん」のことを話していたとき、偶然にも「わたし、そのタネもらったことあるわ」という人に出くわしたのだ。
「えっ、どこで、どこでもらったの。そのタネ持っているの?」
100年ぶりに会えた恋人のように飛びついたわたしだった。茨城県で1985年、開かれた筑波万博で配られていたらしい。
わたしに盲点があった。これまでの経験から千葉県を中心に探していたのだった。茨城県だったのか……。
山口誠太郎、陸軍衛生材料長、軍医。茨城県石岡市に住み、東京・世田谷区にあった薬学の研究所に勤務していたという。
石岡市の自宅には息子の裕氏が住んでいた。筑波万博でタネ30万袋を参加者に配ったという。地元の「緑の手帖の会」というサークルの青年に案内され山口家を訪ねた。市内の閑静な住宅地にその家はあった。
「よく訪ねてくれました。ずいぶん探されたようですね。父(誠太郎)は……」
裕氏は、一挙に堰が切れたよう「花だいこん」の由来を話してくれた。
1937年、中国に侵略していた日本軍が首都・南京で民間人を大量に殺戮した南京大虐殺は、一説によると数十万人を殺害したといわれている。戦後、極東国際軍事裁判や将校従軍日記などでも事実として確定した悲劇。「百人斬り」を競って戦後、刑死した将校の遺族が事実無根と朝日新聞や本多勝一氏らを訴えた裁判、原告側の全面敗訴で史実は守られた。
裕氏の話はつづく。
山口軍医(裕氏の父)は、薬草の研究として南京に立寄っていたらしい。悲劇の現場より後だったというから、翌38年の春か。虐殺は12月前後、6週間から2か月間にわたったといわれている。
軍人だったが医療関係の誠太郎氏は虐殺の事実を知って、日本軍のあまりの狂暴さや国際法違反に怒った。しかし、将校とはいえ一軍人、これを告発できる時代ではなかった。
誠太郎氏は一人の部下を同行していた。
「こんなひどいことが許されるのか。人間のすることではない・・」
部下にしか怒りと悲しみを訴えられなかったのかもしれない。
見上げると、近くの紫金山にたくさんの「花だいこん」が咲き乱れている。一面、紫に染まっていた色は、流された血の色を連想したかもしれない。
「いくら戦争とはいえ、民間人を大量虐殺するなんて。あの花はきっと悲しんで咲いているのだろう」
誠太郎氏と部下は升一杯のタネを採り、持ち帰った。後日、現地からもっと送ってもらったともいう。薬草学者の2人だから、「花だいこん」が「諸葛(しょかっ)菜(さい)」という中国原産の野草だと知っていたかもしれない。
帰国した2人は世田谷の薬学試験場にタネを蒔き花を育てた。野生だからか、とても丈夫な花でどこでも咲いたという。
誠太郎氏は、土を団子状にしてタネを入れ通勤や移動のときに蒔いたらしい。山手線などに自生した花は電車の窓から投げたということだった。
以上の話は息子の裕氏が、実際に誠太郎氏存命のときに聞いたことだった。
誠太郎氏は定年を待たず退官したということだが、裕氏の記憶には特高などがよく父を調べていたこともあったらしい。
また、同行していた部下の名前は忘れたが、子息が紀伊国屋書店の取締役で、こうしたいきさつを父親(部下の方)から聞いており、何度か山口家に連れられて行った記憶もある、ということだった。
わたしと大門さんは、山口裕氏の話を基に広く史実を伝えたいと思い、地元の若者や、うたごえサークルに話を持ちかけた。当時、地元の若者たちは元気がなく、なかなか共同できなかった。
東京・足立区には郵便労働者の横川昭、足立のうたごえの中心的な嶋圭、音楽教師の丸山征四郎の諸氏たちに声がかけられた。そして、1996年4月、石岡市民会館で初めての「愛と平和の音楽会」が開かれる。
また大門氏といくつかの曲をコンビで創作していた、大西進氏らの協力から創作運動は始まった。「花だいこん」という小さな組曲が大西、大門コンビで創られ、丸山氏が一部を編曲したのが最初の創作だった。
つづいて「むらさき花だいこん」混声合唱がつくられ、第3作目に全国でうたわれている2人の合唱朗読構成「紫金草物語」が広がっていった。
2001年からは8次にわたる中国本国の演奏が、数百人による日本合唱団と中国地元民の参加で北京国際放送90周年記念、大虐殺99周年記念の催しなどで演奏されてきた。
従軍慰安婦否定論で安倍首相が国際的に批判され、大虐殺を否定する東中野某なる教授たちの動向、「君が代」・日の丸強制の教育現場の報道に接する。従軍慰安婦報道の朝日新聞はバッシングを受け、元記者たちが脅迫される事態にもなった。
従軍慰安婦問題は、「強制」があったかどうかが問題なのでなく、国家が性買春に直接、関与していた事実が問われている。世界で批判されているのは、当時の軍=国が慰安婦を斡旋、管理していた1000余件の事例だ。
平気で歴史を忘れ、改ざんまでしてしまうこの国の危険を思うとき、「花とふるさと」や「花だいこん」に関わった一人として、黙っていられなくなって筆をとった。
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