この世とあの世

「おい、おまえら! 家に四六時中くるな」
 バス停へ歩いて行く男子高校生3、4人に向かって怒鳴った。
 彼らはすぐ上の姉と同級生で、わたしは中学1年だった。男子高校生らは姉のファンらしく休みになるとよく、わが家に遊びに来ていた。小さな家だったので彼らが来ると、わたしの居場所がなくなる。どこかへしばらく出かけなければならなかった。
「あいつ、塚田の弟だぞ。中学生なのに生意気だな」
 彼らがヒソヒソと何事か話しているのは聞こえた。
「やるのか! 誰でも相手になってやる」
 わたしは小さいころから柔道を習っていたし、大人並みに体力のいる井戸掘りアルバイトもやっていて、腕力には自信があった。女の家に遊びに来るような軟弱高校生なんかに負けるはずがない。
 まさか、こんな出会いのひとりが、すぐ上の姉と結婚するとは想像もしていなかったのだが。

 わたしは高校を中退し、「社会に出て勝負する」と豪語していたが、世の中は甘くない。中卒の学歴がどこでも障害に立ちふさがる。
防虫剤会社のラベル貼り、生地問屋の運転手、倉庫会社の物運びなど肉体派には向いていたが、自分ではもっと知的な仕事がしたかった。
「あんな啖呵を切って学校を辞めたのに……」
 両親や姉たちがことばに出さないものの、わたしは視線が耐えられない。
「おい、カズミ、小遣いだ」
 姉と結婚した義兄は、たびたびわたしに金をくれた。
 あのとき、ケンカせずバス停まで行かせたのが幸いだったのか、職を転転としていたわたしに小遣いをよく恵んでくれた。それも姉や親には内緒である。家に寄りつけないときには義兄の実家でアパートを借りてくれ、家業の鉄筋工アルバイトに雇って生活費をくれた。
 高所恐怖症ぎみのわたしは、鉄筋運びなど得意なもののビルに昇るのが苦手だ。
「へっぴり腰だから余計、足元がふらつくんだよ」
 義兄は学生時代から実家の仕事を手伝っている。素人のわたしはくやしかったが、高層ビルをひょいひょい飛ぶように渡る義兄にはかなわなかった。
 その義兄が昨年、70歳で亡くなった。高血圧症だったからか、脳溢血でアッという間だった。

 染井墓地が東京巣鴨にある。こじんまりとした都営墓地だが高村光雲、光太郎、智恵子一家や二葉亭四迷、岡倉天心などの知名人、徳川家の墓もある。わたしが教えている足立区のカルチャー教室で、この染井墓地に文学散歩することになった。
土方与志という予想していなかった墓を見つけたときは驚いた。生誕100年という新しい記念碑もあったから、これは最近の建立だろう。土方与志は、築地小劇場という日本の演劇界発祥を小山内薫、小野宮吉たちと立ち上げた一人。「左翼」のレッテルをはられ苦労したが、今日も青年劇場という劇団に意思が継がれている。杉村春子、宇野重吉たちが後輩にいた。
 染井桜という由来の墓地を後にしたわたしたちは、帰途のついでだから「お年寄りの原宿」と知られる巣鴨地蔵へ寄ることにした。この日は偶然にも縁日が立っていて相変わらずのにぎわいだった。
「もしもし、あのー、お話を聞かせていただけませんか?」
 カメラをもったテレビ記者がわたしたち一行の前にはだかった。
「あなたが受けてよ」
「いや、男性がいいんじゃない」
 取材記者をよそに譲り合っている。
 わたしも取材した経験があるので、特に決まっていない対象だから誰でもいいのだ。それを謙虚に譲り合うと記者がかわいそう。
「何の取材ですか? ああ、そうですか。わたしでよければ」
 とうとう、わたしが応じることになった。
「では、お葬式についてどう思いますか?」
「偶然かもしれませんが、義兄が亡くなったばかりなんです」
「それは、それは……」
「姉の意向で実に簡素な葬式でした。お坊さんも呼ばない、戒名も付けない。お骨は人工ダイヤモンドにして身に付けるらしい」
「お墓についてはどうでしょう」
「義兄の墓はつくらないということです。これも偶然なのですが、いま近くの染井墓地に文学散歩してきたところなんです」
 墓地でもらった資料を片手に、にわか仕立ての有名人案内を披露した。
「ご自身が亡くなったらお墓はどうしたいですか?」
「そうですね、義兄の葬式やお墓のことを知ると簡素がいいですね。わたしの骨は東京湾に散骨してほしい」
「なぜ東京湾なのですか」
「小さなボートで東京湾に遊んでいますから」
 
 ある文章教室の受講生から1冊の小冊子をもらった。庭野日敬開祖法語録という中にこんな要旨があった。
〈富士山の頂上に立っておれば、どの山どの海も美しく見渡せるように、広い柔かい心を持つことができるようになります。自分が仏さまに生かされているなら、みんなは兄弟姉妹だという気持がひとりでに湧いてくるのです〉
 東宝映画にスカウトされたことのある姉と、軟弱高校生に見えた義兄がどうやって結婚まで至ったか聞く機会はまだないが、義兄の死をキッカケに、無神論者のわたしが妙に彼岸の世界を考えている。

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