前作「金魚掬い」を起承転結の一例として紹介しました。
次もわが稚拙の作です。
〈「人生は1本の木」
久しぶりの再会だった。
高校時代の柔道部の恩師を囲んで、先輩たち6、7人と懇親したのだった。同席していた1年上の先輩たちは、千葉県で初めて県大会優勝という成績を残していた。この時代から母校柔道部の伝統が輝いていったのだった。
県内では、安房高校が戦前、戦後を通じて無敗を誇り、全国大会でも優勝を争うほどの実力だった。それを破っての初優勝は、新聞にも大きく報じられたほどの快挙だった。
すでに当時から40年以上の時が過ぎていたが、話は1戦1戦の展開から試合後の遠征旅行にまで及び、恩師は1滴も酒を飲まないのに2次会までつきあうご機嫌だった。
今年になって、この先生の自伝が小社から『房総を駆けぬけた柔道』(川嶋与四郎著)として発行できた。わたしは聞き書きを担当した。
病院のベッドに寝かされていた。前日の柔道懇親会の翌日である。
前日の宴会から丸2日、宴会の食べ物が当たったのか、激しい嘔吐と下痢に襲われつづけていた。まさに、襲われたという表現にふさわしいほど、体験したことのない苦痛だった。
点滴がようやく効いてきたのは、どのくらいたってからだろうか、カーテンで仕切られた両隣りの声が聞けるほど病状は安定してきた。
「もう、誰もいない所に行って死にたいわ」
ドキッとする右隣りからの声は、お嫁さんに連れて来られた年配のおばあさんらしい。
「お医者さんに聞いても、どこも異常がないと言っているでしょう。病院に来ると治っちゃうんだから、気のせいじゃないの」と、お嫁さん。
「気のせいじゃないわよ。だって、朝方に寝ていられないくらい痛かったのよ」と、おばあさん。
「ひと月に何回、病院に来ているの。そのたびに、わたしは会社を休まなくてはならないのよ」
どうやら、カーテンごしに聞こえてくる話をまとめると、こんな内容らしい。
おばあさんはひとり暮らし。たびたび朝早く、お腹が痛くなって、近くに住む長男の家に助けを呼ぶらしい。その都度、お嫁さんがかけつけ、病院に連れて来る。しかし、会社に勤めているお嫁さんにとって、付き添うことは会社を休まなくてはならない。そのあげく、診察しても異常は見つからず、栄養剤の点滴をしてもらうと治ってしまうらしい。
お嫁さんの口調はやさしく、会社をたびたび休まさせられる不満はあっても、よくある嫁姑の諍(いさか)いではなさそうだ。しかし、「死ぬ、死ぬ」と繰り返すおばあさんに呆れて、
「そんなに簡単に死ねないわよ。口で言うほど簡単に死ぬことなんてできないでしょ」
カーテンの左隣りから、今度はまだ声変わりしていない少年の声が聞こえてくる。
「ママ、点滴まだ終わらないの」
「ほら、もうすぐでしょう。風邪をこじらせたら大変なんだから」
「学校は明日もお休みするの」
「熱がなかったら行ってもいいけれど、37.3℃もあるからね。明日まで様子を見ましょうね」
なになに、子どもの体温は高めのはずだし、37℃くらいなら大したことはないだろうに……。しかし、子どもの教育や子育てに意見はあっても、ここはジッとしていなければならない。他人なのだ。
「ママ、点滴まだなの。お腹がすいたよ」
「はいはい、わかりましたよ。看護師さんに早く終わるようにしてもらいましょうね」
たぶん若いだろうお母さんは靴音をさせて、どうやら看護師を呼びに行ったようだ。
カーテンの向こうでは、まだ年少の男の子が「ママ、ママ」と小さな声でつぶやいていたが、間もなく帰って来たお母さんと看護師を見るや、声を一段と大きくして言った。
「ママ、おやつ」
「はいはい、わかりましたよ。帰りにケーキ屋さんで、○○ちゃんの大好きなおいしいケーキを買いましょうね」
やがて、右も左もカーテンの向こうには誰の声も聞こえなくなって静かになった。
40何年ぶりの宴会から初体験の点滴騒ぎになったわたしだったが、幸か不幸か、病院のカーテンごしに聞いた2つの会話は、人生の終わりと、これから始まる人生の対比を見るようだった。そうだ、2人の人生の始まりと終りだが、これは1本の木の物語なのだろうか。〉
普通、文章は長く書くことがむずかしいと考えます。小学校時代、原稿用紙3枚以上の作文などと言われると3、4日考えても書けないと思ってしまいました。
しかし、逆にテーマが決まり、600字や800字で原稿をまとめなくてはならない場合にぶつかります。単なる書評や感想文や手紙なら書けそうですが、例えば自分の将来についてとか、日本の社会についてなどとなると、けして短くまとめるのは容易ではありません。
そこで、意識的に日頃から短文の練習をしておくのが勉強になります。短く書くことを意識して構想、テーマを探します。